「天長節」
12月23日(土)は天長節でした。
中東で詠われた詩で奉祝したいと存じます。
東方から太陽が昇る
眠っていた人間は誰もがその場から跳ね起きる
文明の夜明けが日本から拡がったとき
この昇る太陽で
全世界が明るく照らし出される
☆★☆━━━━━━━━━━━━━━第75回<<
『ブレイク・マンデー(^^♪』
※ 週の始まりを明るく向かえましょう。※
今週も清々しい気持ちと共に、
「目覚めの一曲」を
ご紹介いたします。
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"Orchestrion"
音楽演奏機械の総称をオーケストリオンと呼ぶそうです。
オーケストラやバンドのような音を奏でるなんて!
とても素敵ですね(^^♪
Phonolizt Violina
Pasadena
https://youtu.be/o3SecHzbN2E
☆★☆━━━━━━━━━━━━━━第65回<<
「歴史書古事記全訳」武光誠(たけみつまこと)氏著
「上巻 伊邪那岐命と伊邪那美命」を読みました。
『週に一度、行きつけの喫茶店で
古事記の読書と内容をまとめています。 』
※ 毎週月曜日早朝更新予定です ※
※ お知らせ ※
1月1日はお休み致します。
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『伊邪那岐命の禊ぎ払い』その5
次に禊をした水の位置から其々に神々が登場します:
水の底
⑱底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
⑲底筒之男命(そこつつのおのみこと)
水の中程
⑳中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)
㉑中筒之男命(なかつつのおのみこと)
水面
㉒上津綿津見神(うわつわたつみのかみ)
㉓上筒之男命(うわつつのおのみこと)
※安曇連(あずみのむらじ)
安曇は氏(うじ)、連は姓(かばね)。安曇連は大和朝廷水軍指揮を司る豪族で、綿津見神の三神の子である宇都志日金拆命(うつしかなさくのみこと)の子孫とされます。
※大阪市・住吉大社(神功皇后による御鎮座)
(底・中・上)筒之男命の「つつ」には星の意味があるとされ、海神として祀られている。
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「古事記」にまつわるお話。
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『竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原』その2
禊発祥の地としてとても有名な江田神社ですが、その社格にとても大きな影響を与えた天変地妖兵革等(円融天皇と後西院天皇の在位中)を比較してみたいと存じます。その由緒記には神社の社格が天変地異による影響を受け、昇格も降格した様子が書いてあるそうです(PhotoMiyazaki)。円融天皇の治世に於いて、神階・正一位に昇階。転じて、後西院天皇の治世には神社制度改革の結果、一村落の産土神の扱いを受けます。円融天皇と後西院天皇の治世に於いて、幾度となく元号が変わる「改元」が行われました。改元とは、元号を変えることで運気を変える行為。その理由として、主に4つ存在します:
◎代始改元(だいはじめかいげん): 君主交代
◎祥端改元(しょうずいかいげん): 吉兆現象をもって(陰陽道思想)
◎災異改元(さいいかいげん): 凶兆現象をもって(陰陽道思想)
◎革年改元(かくねんかいげん): 三革(革令・革運・革命)を区切りとする(讖緯説・しんいせつ)
其々の治世に於いて、実際起きた出来事をまとめてみました。
円融天皇(平安時代・第64代)
在位 969年-984年
①安和(968-970) 安和の変(969)
②天禄(970-974) 代始改元
③天延(974-976) 薬師寺、北野天満宮の焼失による天変? 天然痘の流行
④貞元(976-978) 内裏焼失・山城・近江地震(976)M 6.7以上、死者50人以上。厄災による改元
⑤天元(978-983) 翌年が陽五の厄に当たる為
⑥永観(983-983) 炎旱と再建直後の内裏(皇居)火災の為
※時系列より、代始改元された年に神階・正一位に昇階したことが分かります。
後西院天皇 (江戸時代・第111代)
在位 1655年-1663年
①承応(1652-1655) 将軍宣下(しょうぐんせんげ・徳川家綱)
②明暦(1655-1658) 代始改元
③万治(1658-1661) 明暦の大火(1657)
④寛文(1661-1673) 内裏が炎上(1661)
※寛文年間の地震
◎寛文近江・若狭地震(かんぶんおうみ・わかさじしん)寛文2年5月1日(1662年6月16日)
◎外所地震(とんどころじしん、とんところじしん・日向灘地震)寛文2年9月20日(1662年10月31日)
M7.6、最大震度は6強(推定)。有史以来最大規模の日向灘地震。
平安時代・天禄年間に隆盛を極めた江田神社。その運命に甚大な影響を与えたものは、津波による直接的な打撃を受けたことと、ご譲位を促した当時の社会情勢にあったようです。明暦の大火(1657)で江戸の大半を焼失。寛文年間に内裏火災(1661)と寛文近江・若狭地震(1662)が起き、国家の中枢に大打撃を被ります。同年、日向灘を外所地震が襲います。津波が江田神社に壊滅的な打撃を与えてしまします。寛文3年(1663)、後西院天皇は弟の識仁親王(さとひとしんのう・後の霊元天皇(-1687))にご譲位なさいます。
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